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兼六園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
兼六園(けんろくえん)は石川県金沢市にある日本庭園。広さ約3万坪、江戸時代を代表する池泉回遊式庭園としてその特徴をよく残している。国の特別名勝に指定されている。岡山市の後楽園や水戸市の偕楽園と並んで、日本三名園の一つに数えられる。
金沢市の中心部に位置し、旧百間堀を道路とした百間堀通り(百万石通り)を橋で渡ったところの石川門から、金沢城を復元中の金沢城公園へと続いている。
[編集] 江戸時代
江戸時代、加賀藩の庭園として造られたことに端を発する。延宝4年(1676年)に五代藩主前田綱紀が「蓮池亭(れんちてい)」を造り、その庭を「蓮池庭(れんちてい)」と呼んだのが始まりとされている。これは、蓮池門(れんちもん)を入った辺りであり、現在7つある門の中で、正門とされている。当時は、金沢城の外郭として城に属していた。
13代藩主前田斉泰は天保8年(1837年)霞ヶ池を堀り広げて増庭させ、現在のものにほぼ近い形にしたとされる。「兼六園」の名称が定められたのもこの頃である。
名称は宋代の詩人・李格非の『洛陽名園記』に由来する。「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ね備える名園」との意味で、当時の老中松平定信が命名したとされている。とくに、小立野台地の先端部に位置していることから、園内に自然の高低差がある。これによって、園路を登りつめていく際の幽邃な雰囲気と、高台にある霞ヶ池周辺の宏大さ、眼下の城下町の眺望を両立させているといえる。平地の日本庭園では、人工的な築山でしか高低差を表現できないことであり、この点では特筆に値する。
また、春夏秋冬それぞれに趣が深く、季節ごとに様々な表情を見せるが、特に雪に備えて行われる雪吊は冬の風物詩として情緒を添える。
霞ヶ池を渡る石橋を琴に見立てて徽軫(ことじ)をなぞらえた徽軫灯籠(ことじとうろう:「ことじ」は筝の弦を支える道具)は、兼六園を代表する景観となっている。
また、園内の噴水は、日本に現存する最も古い噴水であるといわれる。これより高い位置にある園内の水源、霞ヶ池から石管で水を引き、水位の高低差だけを利用して、水を噴き上げさせている。そのため、水が噴き上がる最高点は、ちょうど霞が池の水面の高さに相当する。ポンプなどの動力は一切用いておらず、位置エネルギーのみを利用したものである。
園の東南側には、13代藩主前田斉泰が母親である眞龍院の隠居所として建てられた成巽閣が現存する。
なお、金沢の地名は園内にある湧き水「金城霊沢」(きんじょうれいたく)を由来としている。
明治以降
長らく殿様の私庭として非公開であったが、1871年から日時を限っての公開が始まり、1874年5月7日から正式に一般公開された。1876年には兼六園観光案内組合が組織され、積極的な観光利用の歴史が始まった。
同年、園内の山崎山麓にあった異人館と成巽閣を利用して、常設としては国内初の博物館である金沢勧業博物館が開かれた。同館は1909年に廃止されるが、その間1879年に図書館が、1887年に金沢工業学校(後の石川県立工業高等学校)が附属されるなど、大規模なものに拡張された。また、1880年には西南戦争の戦没者を祀る明治記念之標が建てられた。
こうして明治以降に構造物が付加されたことが、1922年名勝に指定されたものの、特別名勝に指定されない一因となっていたが、その後の上記施設の移転などの整理と整備により、1985年特別名勝に指定された。
開園以来、無料で24時間開放されていたが、深夜何者かによって徽軫灯籠が破壊されるなどの事態が発生した(当時のものは別のところに保管されている。現在の灯篭は新造された物)ことや維持、保存費用の捻出の為に1976年から後楽園や栗林公園に倣って有料とし、時間を限って公開されるようになった。
兼六園広坂休憩館
資料展示室、談話室等からなる兼六園に隣接する休憩施設。資料展示室には、兼六園や金沢城に関する史料が展示されている。もともとは、大正11年(1922年)に陸軍第9師団長の官舎として建てられた木造2階建の洋館。戦後は家庭裁判所、児童会館、野鳥園などに使用され、平成元年(1989年)から現在の用途で使用されている。

後楽園
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概要
岡山藩主池田綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて作らせた。貞享4年(1687年)に着工し14年の歳月をかけ元禄13年(1700年)に完成した。 岡山市内を流れる旭川をはさみ、岡山城の対岸の中州に位置する。藩主が賓客をもてなした建物・延養亭(えんようてい)を中心とした林泉回遊式の庭園で岡山城や周辺の山を借景としている。 江戸時代は延養亭を茶屋屋敷、園を後園と呼んでいた。明治4年(1871年)、これを後楽園と改めた。
明治17年(1884年)、岡山県所有となり一般に公開
昭和20年(1945年)太平洋戦争時、岡山市が空襲を受けた際に岡山城天守とともに園内の建物も焼失した。
昭和27年(1952年)文化財保護法により国の特別名勝に指定される。
昭和31年(1956年)かつて岡山に遊学した中国の政治家・郭沫若より2羽の丹頂鶴を贈られた。現在も鶴の飼育が続けられ、元日には園内に放つイベントが催されている。
昭和35年(1960年)延養亭が再建
昭和42年(1967年)園内の全ての建物を復元。

偕楽園
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偕楽園(かいらくえん)は茨城県水戸市にある日本庭園で、岡山市の後楽園や金沢市の兼六園と並んで、日本三名園の一つに数えられる。1999年7月隣接する千波公園などとあわせて名称を偕楽園公園と統一し、市街地隣接公園としては面積は合計300haとニューヨークのセントラルパークに次いで世界第2位の広さを誇る。
天保13年(1842年)7月、水戸藩第九代藩主徳川斉昭によって造園された。 斉昭は、千波湖に臨む七面山を切り開き、弘道館で文武修行する藩士の休養の場とすると同時に、領民と偕(とも)に楽しむ場にしたいとして「偕楽園」と名づけた。その名の精神により当初から毎月「三」と「八」が付く日には領民にも開放されていた。この精神を引き継ぎ、日本三名園では唯一、誰でも無料で入園できる(ただし、後述の「好文亭」を利用する場合は有料)。
偕楽園の自体の広さは約13ha。園内には合わせて100種3000本の梅が植えられている。
毎年二月下旬から三月下旬にかけて「梅まつり」が、九月には「萩まつり」が行われる。
園内には「好文亭」があり、その名は梅の異名「好文木」に由来する。 好文亭は1945年の水戸空襲で焼失し、1958年復元されたが、1969年に落雷で再度焼失し、1972年に復元された。2度目の火災は前年に避雷針の予算要求が認められなかった直後であったため文化財保護のあり方に問題を投げかける契機になった。



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